バターン死の行進
1942年フィリピンにおける、日本軍によるアメリカ軍兵士及び民間人捕虜のデスマーチ。これに伴い大量の捕虜たちが死亡、負傷した。
フィリピンでは、4月9日を勇者の日 (Araw ng Kagitingan) として休日に定めている。
本事件は戦時中アメリカ本土で過剰に宣伝され格好の反日プロパガンダとして利用された。
捕虜の扱い
現地の指導的立場にあった辻政信は「この戦争は人種間戦争である」として、「アメリカ人兵士は白人であるから処刑、フィリピン人兵士は裏切り者だから同じく処刑しろ」と部隊に扇動しており、独断で「大本営から」のものとする捕虜の処刑命令を出していた。今井武夫の記録によれば、4月9日午前11時ごろ、第六十五旅団司令部から電話で、大本営命令として米比軍捕虜を射殺せよという命令が届き、ことの重大性から今井大佐は書面による命令を要求した。この命令に文書がなく、本物かどうか疑わしいため、現場では無視したり逆に捕虜を釈放したとの証言も多くある。しかし命令は絶対であるとして、実行したものもいた。本間中将はこのことについてまったく知らなかった。
収容所にたどり着いたのは約5万4千人で、約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、その他殴打、処刑などで死亡したものと見られている。米軍の死亡者は2300人と記録されている。看視の日本兵は少なく、逃亡は容易だったとされる。フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、脱走者が多かったとされる。
脱走した捕虜から事情を聞いたアメリカ側はこの出来事を日本軍の残虐行為の典型として、戦意向上、すなわち世論の反日感情を掻き立てることに利用した。この事件は組織的に行われたものではないが、ほとんどの生存者は「死の行進」が日本軍の最高司令部によって計画されたものだと信じていた。本間らが実態を把握したのは2ヶ月後であった。実情を知った本間中将は、和知参謀長にできるだけの対策を講ずるよう命じている。
戦後のマニラ軍事裁判等において、本間や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監河根良賢少将は死の行進の責任者として有罪の判決が下り処刑された。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
バターン死の行進、こんな出来事があったんですね。
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